※この対談は2009年5月に行われたものです

【インタビューアー】「プラシーボ」と「プラシーボ効果」は厳密に分けて使ったほうがいいでしょうか。

【広瀬】 分けたほうがいいと思います。

プラシーボは、ラテン語の「プラツェーボ」が語源で、「人を喜ばせる」という意味です。

近代医学が生まれてくるまでは、「人を喜ばせる」ことの中に、病気のいろんな症状で苦しんでいる人のための多くの医療がありました。

症状を訴えてきた患者に対して救いの手を差し伸べる。

19世紀の後半とか20世紀の初めまで、アメリカなどでは医者が「これを飲めば元気になるよ」と患者に砂糖のピルを渡すようなことをやっていました。

それで結構治っちゃう。「ホッとして、これで治るんだ」と思うことの効果が伝統医療の中に脈々と生きていたのでしょう。

 プラシーボそのものは砂糖でも、草木の灰のようなものでも何でもいい。プラシーボは、受ける側が強い期待を持てるものならばよいのです。

【インタビューアー】 つまり、プラシーボとは希望や期待なのでしょうか。

【広瀬】 期待や希望を寄せる対象です。砂糖のピルに対して期待をかけて、「これで何とかなる」と思い込む、信じる。

そうすると、そこにプラシーボ効果が発生します。

【インタビューアー】 期待をすることで体もしくは心にも影響を及ぼすのがプラシーボ効果ということですね。

【広瀬】 はい。期待を処理する脳内の回路が働き、良い心身の相互作用が生じます。希望を持ったり楽観的な態度をとることによって緊張がほぐれて、自分が本来ありたいと思う方向にだんだん近づいていく。

「プラシーボ」は外側にあるものであって、「プラシーボ効果」は内側に生まれてくるものです。

【インタビューアー】 難しい部分ですね。例えば病気で具合が悪いときに、治りたいという一念が高じてくると、それがプラシーボとして働いて、それによって体が変わってきてプラシーボ効果が出てくる。そんなとらえ方でしょうか。

【広瀬】 少し違います。治りたいという気持ちは自分の中からわき出てくるものです。

治りたい気持ちを満たす外在的な何かが必要で、「これで大丈夫」と確信できないと駄目です。

【インタビューアー】 やはり気持ちだけでは無理で、何か対象がないといけないのですね。

【広瀬】 宗教を持っている人のストレスの程度が低かったり、長生きだったり健康だったりとよくいわれますね。

神あるいは仏といった外在的な「何物か」が自分のことを守ってくれている。

これを信じれば健康になると確信している。

また、「チャーチ・ゴーアー」といって足繁く教会にかよう人は、そのことが適度な運動になり、ボランティア活動や仲間同士の支え合いがあって社会活動が活発になるから、それもまた健康にいいわけです。

自分の病気の快癒をみんなが祈祷してくれることも影響があるといわれています。

これに関しては面白い話があります。

アメリカでNIH(米国立衛生研究所)が多額の費用を投じてその効果を実験しました*1。

病気の本人は祈られていることをまったく知らされない状態で、いろんな宗派の宗教家たちに名前とその人のごく簡単な情報を伝えて祈ってもらう。

祈ってもらった人とそうでない人とで、病気の状況がどう変化するかを比べました。結論は「有意差なし」です。

自分のことを祈ってくれているとか、自分のことを呪詛して殺そうとしているとかの場合でも、本人が知らない限り、あまり影響はないようです。

【インタビューアー】 逆に、マイナスに思いつめてしまうと病気になったり、治らないと思えば治らないこともあり得るでしょうか。

【広瀬】 あると思います。先ほど申しましたように、プラシーボは本来「プラツェーボ(人を喜ばせる)」という意味ですが、同時に「プラス」という意味もあります。

それに対して「ノーシーボ」はマイナスの影響を及ぼすものです。

例えば、ブードゥー教のまじない師に「お前は死ぬ」とか「お前はもう長いことないんだ」と宣言され、まじないをかけられると本当に死ぬ。

キャノンという有名な生理学者が、何人かの医者の目撃談を聞いてまとめています。

それによると、非常に緊張した状況の中で一種の心臓発作を起こすのです。

ノーシーボは、自分に対して災いをもたらすものがあることを現実に知るときに起こります。

丑三つ時、人形にくぎを打ち込むような呪詛は、勝手に行われているのであれば影響はないですが、自分に見立てた人形に誰かが五寸くぎを打ち込んでいることを何らかの形で知ったとき、ノーシーボ効果が起こります。

続く