正統的なシェイクスピア役者は、かりに現代という時代設定の中でベニスの商人を演じる場合でも、セリフはシェイクスピアの原作そのままだし、韻の踏み方や言葉のリズムも、息つぎのしかたも当時のまま演じるのだという。

これはシェイクスピア劇の基本的な限定なのだそうだ。

これがなくなれば、もはやシェイクスピアではないし、それがまたシェイクスピア作品の美しさの主な源泉ともなっている。

だが、セリフは入りくんでおり、さまざまな解釈を可能にするほど多彩である。

それゆえであろうか、それだけでもなかろうが、いままでとは違ったふうに解釈してみたい、これまでにない新しい味付けをしたいといざなう何かがある。

翻訳者を飽くことなく魅惑して新しい創作に駆り立てる、何か根源的なものがありそうだ。

それは一体何なのか。多くの作品の中で登場人物の輪郭は、単純な描線であらわされていない。

しばしば同じ人物が、強くもあり弱くもあり、慎重でもあり軽率でもあり、残忍そのものであるかのようでいて良心の呵責に悩んでいる。

最悪人が悪そのものではなく、気高く勇敢な人物が嫉妬に狂い人を殺す。

善であり悪であるのだ。

マクベスの魔女の言葉のように、「きれいは穢きたない。穢きたないはきれい」なのである。

同じような言いかたをするならば、「本物は偽物、偽物は本物」「確かはあいまい、あいまいは確か」なのだ。

真実とはそのようなものとしか表現できないのではないのか。

言葉遊びのようだが、われわれが直面する真実のリスクもまた、そのようなものなのだ。

確率的に表現できるものなど、リスクの中の小物にすぎない。言葉は明瞭だが、実体はあいまいだからだ。

続く