芥川の「藪の中」では、登場人物たちは意図的にか、あるいは無意識にか嘘をついているのだが、かりに、誰も嘘をつかないとしても、なにが真実かを語ることは誰も出来ない、明確には真実の一面だけを捉えることしか出来ないのである。

群盲が象をなでているようなものである。

人生においても、あるいは人類の歴史においても、我々はその真実なるものを捉える完全な能力を持っていないのだ。

したがって、あいまいな真実らしきものをつかむ手掛かりをつかむためには、従来の断定的な枠組みにとらわれてはならないということだろう。

真実を語る上で、あいまいさはむしろ物理的に生じるものであって、避けることができない。

つまり、それは不可避的な副産物として存在するものである。

従って、あいまいであるということが真実を語っているのではなくて、真実を語ろうとすると、そこにあいまいさが付きまとうのが本当のところである。

しかも、どの程度のあいまいさがあるのかはわからない。

むしろ、あいまいさのない真実はないということに注心すべきだろう。

このように見てくると、真実とは、複眼的視野の中におぼろげに現われてくるもの、それは、全体として我々がそれを見すかし、感じ取り、そしてそれを受け入れるものではあるまいか、と私は考えている。

続く