かなり前の話しだが、ロンドンの王立演劇アカデミーの元校長、ニコラス・バータ-氏と、シェイクスピアの魅力とは何なのかということで雑談をしたことがある。

バーター氏は、イギリス演劇界の重鎮のひとりだそうだが、このことは後になってから知った。

さて、その時の話で、シェイクスピアの魅力の一つは、役者が発する言葉の多義性にあるということになった。

このようなことは多くの人々が言っていることで、特別に目新しいことではない。

多義的であることは、その対極にある一義的であるのとは違っていてあいまいさがつきまとう。

問題は、そのあいまいさの本質である。

戯曲作家の側からすれば、権力者や為政者から加えられる迫害や圧力から身をかわす保身の術として用いる必要があっただろう。

シェイクスピアの劇の多くは、政治劇でもあったのでなおさらである。

あいまいさによって尻尾をつかまれずにすむ。

一方、作品の側からすると多義的な言葉によってイメージは重層化する。

その場合、あいまいさは、物に対する影のようにイメージに奥行きをもたらす。

そして現実は、もしかすると、多義的で一義的に定まるようなものではないのかもしれない。

「ハムレット」や「マクベス」のようないくつかのシェイクスピアの作品の主人公は、その性格のあいまいさのゆえに、かえって時を超えた生命を保っている。

自然科学の世界の“真実”でさえも科学史の立場から見れば、次の“真実”に置きかわる前の暫定的なものにすぎないではないか。

厳密さの点では比べるもののない数字においてすら、あいまいさは避けられないという。あいまいなるがゆえに、一元的な神の支配を免れることができる。